大任町について

大任町(大行事村+今任原村)の地名の由来になった藤原今任卿について歴史の流れを調べてみた。

大任町の町名の由来は、明治22年の「大行事村」と「今任原村」が統合されてできた「大任村」となったことによります。大任町の歴史や文化、地理などが編纂された「大任町誌」に記載されている歴史部分から紐解いていきたいと思います。(アイキャッチ画像は、藤原今任ではなく、その父親とされる藤原実頼の画像を使っています。)

大任町の歴史

中世の大任町はかつて、宇佐宮・宇佐弥勅寺・彦山の荘園として発展し、 戦国時代に入ると大友氏と大内氏の支配の狭間にあって、たびたび戦火にさらされながらも、 豊臣秀吉の九州征伐によって本町付近は毛利氏の支配を受けることになりました。その後、関ヶ原の戦いの結果、毛利氏は所領を没収され、 変わって細川氏、ついで小笠原氏が支配するようになりました。

藩政下では現町域を二分する形で添田手永・伊田手永に属していましたが、明治維新後、行政区画の再編成や小村統合が幾度かおこなわれました。

現町域が一つの行政区画となったことはありませんでしたが、明治20年に7つの村と3つの村を統合して、大行事村と今任原村がそれぞれ誕生しました。

明治22年5月に、大行事村・今任原村が統 合され大任村となり、さらに昭和35年1月の町制施行を経て現在に至っています。

今任原村の村名の由来になった藤原今任卿

藤原今任卿が大任町に来たきっかけ「天慶の乱」

藤原今任卿が、歴史上登場するのは、天慶4年(942年)のこと。

その頃の日本は、瀬戸内海・九州北部で藤原純友が起こした反乱「純友の乱」と関東での平将門の起こした反乱「将門の乱」を合わせて呼ばれる「天慶の乱」に朝廷では大混乱を起こしていました。

藤原純友が伊予(愛媛県)に赴任後、そのまま土着し、土地の不平分子や豪族を糾合して海賊の長となった。

日振島(愛媛県宇和島市)を拠点として、中国九州に侵攻し、一時は西海を圧する勢力になった。

そのころ、息子の藤原純年に、太宰府と朝廷、また豊前国府の連絡を絶つ目的で、鬼ヶ城(香春岳:田川郡香春町)を治めさせました。

天慶3年(941年)、小野好古(よしふる:書道で有名な小野道風の兄)を総大将、源経基(経基流清和源氏の初代)を副将とする藤原純友・純年討伐の最精鋭部隊が編成されます。

播磨、讃岐、伊予で好古らに破られた、純友は九州・大宰府を攻め、焼き払います。

好古らは、博多湾で純友の水軍を再び破り、その後伊予に逃亡した純友は捕らえられます。

鬼ヶ城(香春岳)の純年も同じころ行方をくらましています。

この戦に参戦した藤原今任卿は、戦功により、田川企救二郡を賜り、そのまま土着し地方豪族になったと伝えられています。

大任町を治めた藤原今任卿のその後

藤原今任卿は、自分の居宅に寺を建てて、建徳寺とよび、これから建徳寺城と呼んだ。この建徳寺城のあった場所には諸説あるが、現在の大任中央公園に、建徳寺古墳という古墳が見つかっている。

また自分が信仰する宇佐八幡(宇佐神宮)を勧請して、野原八幡宮を建立したといわれる。

野原八幡宮の縁起で、直方多賀神社の神官、物部敏文の八幡神祭記という文と、今任の庄屋、渡辺総六の文が併記してある「今任神社所祭記」という記録があり、その中に詳しく書かれています。

(前略)今任卿平日八幡大神を尊信し、常に以為えらく、夫れ八幡宮は日本中興の武神にして敵国を降伏し、朝家を鎮護すること赫々たりと、是に由りてか、或夜夢むらく威儀厳端なる上客あり、白馬に鞭ち来りて馬を枕頭に駐め宣り曰く「汝互を崇敬すること至れり、吾今より汝が地に遷り住せむと欲す、汝吾がために宮造せよ」仰って忽去りぬ、卿夢さめて敢えて実となさず率に旬余を経たり、暫くて夢みること再三、ここに於いて愕然として起て座次を整し拝伏黙謝し、日ならず宇佐宮に詣して謹んで拝礼し仰で霊迹を吾が〇邑に垂れ給はんことを懇祈りして居城に帰る。後家臣とともに其事を議し、遂に田川郡建徳寺城内に殿舎を経営す、時に天慶5年8月25日なり神官等相聚会し致斉して神を此の地に奉請す、是れ即ち今任八幡宮也(云々)

野原八幡神社と藤原今任卿に関しては下記記事をご覧ください。

今任の地名が村名になったのは、豊前今昔説によれば、応永文安(1394~1449年)の頃の大洪水の後、桑原村から野原村と呼ぶようになったが、農村に野原の名は縁起が悪いとして、建徳寺城主の名をとって今任村としたと記されています。

藤原今任卿の家系に関して

前述の「今任神社所祭記」には、今任卿自身の出生に関しても記されていて、

参議従三位、今任卿は大織冠鎌足十代の孫、一条小野宮摂政左大臣実頼公六男也。今任卿の苗裔(遠い血統の子孫)相次いでこの神社を修め、爾来(それからのち)二十代の後胤一条土佐守貞政同右馬助時任に至る。米丸山の城の主として、其後家声漸く微かにして、遂に農家となり落魄無聊(落ちぶれる様)なり」

また、両豊記には、
「惟任は今任より十六代の孫なり。高家と号し、九州にあって太宰大弐の下知にも附かず、探題にも謙せず。近代大内家豊前を領すといえども宮家領と名付けて、一条領には公納を除く」とあり、特異の地位を占めていたように書いてある。ここに高家というのは、有職故事に明るい家柄をいうのであって、実頼公が小野宮流という有職の流派を開いた人であるからだろう。

建徳寺城の一条家(今任卿の末裔)は永く、戦国時代末期の永禄12年(1570年)に大友氏によって滅ぼされるまで続きました。

藤原今任卿の謎

ここまで、町や神社に残る文献から、「藤原今任卿」という人物を記してきましたが、「大任町誌」にも追記として書かれている今任という地名の由来と藤原今任卿自身の存在について3つの謎が書かれています。

・謎その1:今任卿着任前の文書に今任の名がある
宇佐八幡宮の勧請元である京都の石清水八幡宮で社務などを担当した紀氏の嫡流田中氏に伝わる「田中家文書」には、既に今任の荘の名前が記されている。石清水八幡宮の勧請が貞観元年(859)なので矛盾する

・謎その2:今任卿の名が、公式文書に存在しない
例えば、天慶の乱の報告書である「純友追討記」には、功を飾った武将の名前に、前述の源経基や、藤原慶幸、大蔵春実、藤原恒利、宮道忠用、橘遠保などが記載されているが、今任の名がない。

また『尊卑分脈』という当時の有力な家の家系図を示した文書の、藤原氏の家系、もっと言えば、「今任神社所祭記」で父親とされる藤原実頼の子供として、今任が記載されていない点があります。

当時の藤原家の中で、藤原北家、一条家の関白・藤原忠平の長男である実頼の男子にもかかわらず、公式文書に載っていないのである。

また参議という大臣や大納言・中納言に次ぐ朝廷での重要な位を冠していながら、「公卿補任」という歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録に、今任の名前が記されていない。

・謎その3:天慶の乱の総大将、小野好古との官位の矛盾
天慶の乱の総大将を任ぜられた小野好古は、この乱の功績が認められて6年後参議に任ぜられました。ということは、乱征伐時には、参議より低い従四位下というくらいでした。

その総大将に従って討伐に加わった藤原今任が参議だったとすると、官位の矛盾が生じるため、現実味にかけるのではないかという考え方もあります。

藤原今任卿と大任町の関係まとめ

ここまで見てきたように、大任町の町名の元となった今任原という地名と、その由来となっている藤原今任卿という人物の関係は、正確な史実かどうかを断言できるレベルではありませんでしたが、平安時代に生きたとされる貴族と、現代の大任町が繋がっていると思うと夢がありますね。

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